第一話 失踪

 ノートは白紙だった。授業が始まってから三十分経っていたが、板書をする様子などまったく見せなかった。窓の向こうを眺めながら、手に持っているシャープペンを回したりして遊んだ。教科書は開いていて授業体制を作ってはいるが、何一つ聞いていないようだった。
 世界史。モーセが海を二つに割った話で有名な、出エジプト記。今から三千年以上も昔の話であり、旧約聖書の中で創世記の次に古い場面である。エジプトのパロ王の圧政から、モーセによって救われたヘブライ人は、その後、イスラエルに移り住み、ヘブライ王国を立てた。ダヴィデ、ソロモンの頃が最盛期である。繁栄のあとには苦難がさらにあり、ヘブライ王国は北にイスラエル、南にユダと分裂した。のちにヘブライ人は、苦難の民、または流浪の民と呼ばれるようになる…。そういった内容だった。
 モーセはエジプト王の養子だったが、ヘブライ人である。当時エジプトのヘブライ人は、人口を減らすため、一歳以下の男児は殺されていた。母は生まれたばかりのモーセを、隠しながら育てたが、生後三ヵ月後、遂に隠しきれなくなった。母は、泣く泣く思いで愛する息子を川に捨てた。それを拾ったのが、水浴びに川にきていたエジプト王妃である。と、補足説明として、教師は付け足した。
だが、聞いていない人間にとっては、どうでもいいことである。たとえそれが、試験にでるような重要なことだったとしても。
 彼女は頬杖をついていて、こころここにあらず、という状態であった。真剣な表情をしているが、授業とは別のことを考えているようだった。時折苛ついたように、眉間にしわを寄せる。その度に、整った顔立ちがゆがんだ。
 窓際の席に座っているので、時折風が吹いてくる。長く、綺麗な黒髪が小さく揺れる。
 やがて、時間は過ぎて、授業終了の鐘がなった。
 あわてて我に返る。ノートを全くとっていない事実にみずから唖然とする。先生の話はともかく、ノートぐらいとっておくべきだった。もう黒板も消されてしまった。
「キリアー」
 後ろから、彼女――キリアという名前である――を呼ぶ声がした。振り向くと、親友の武内涼子がいた。真面目で、成績優秀な生徒である。細長い眼鏡をかけていて、長い茶髪を二つの三つ編みに縛っている。優等生そのものの姿に見えるが、ちょっと抜けているような雰囲気がそれを和らげていた。
 「どうしたん?後ろから見てる限り、ずーっとぼーっとしてたみたいだけど」
 疑問の声。確かに呆けていたが、他人に言われると腹がたつ。キリアは優等生を半眼で睨み付けた。
 「悪かったわね。ぼーっとしてて。なんか授業に身が入らなかったの」
 一気に言った。それだけ言うと、机に顔を埋めて睡眠体勢をとった。
 機嫌が悪そうだ。涼子はそう思ったためか、何も言わなかった。原因は…分かる気がするけど。
 一度、涼子は自分の席に戻る。机には、世界史の教科書、ノート、資料集、用語集などが散らばっていた。ノートには優等生らしく、板書だけでなく先生が言ったことを余すことなく書き留めてあった。
 ノートを手に持って、再びキリアの席に行く。机に突っ伏して寝ている彼女の頭を、ノートで軽く叩いて起こす。
 顔をあげたキリアは、授業を聞いていない割りに、眠そうな顔をしていた。顔をよく見ると、薄くくまが出来ている。折角の美人顔が台無しだな…と思う。
 「取ってないでしょ?見せよっか?」
 うなずいて、無言で取った。するとすぐに、顔をうずめた。
 いつも休み時間は暇なので、二人で談笑したりして時間を潰すのだ。今もそれは例外ではないが、キリアがこうでは話の仕様がない。涼子はさっさと次の授業の準備をして、席に着こうと決めた。
 「あ、そーだ」
 唐突に思い出した。涼子は再度キリアの方を向く。相変わらずの姿勢であるが、どうせ寝ていないだろうと思ってことばを続けることにした。
 「なんかね、昨日言われたことなんだけどね、担任が呼んでたよ。昼休みに職員室来てって」
 「宮沢先生が?何でまた」
 疑問符を出す。不機嫌だが、それよりも驚きの方が勝っているような声だった。呼び出し。なんでわたしが。特に呼び出されるようなことはしていない……と思う。いや、してない。多分。
 「知らないよ〜。最近居眠りとか呆けてる事が多いからじゃないんかな〜?」
 ま、せいぜいがんばりなさいな。ひらひらと手を振って、優等生は戻っていった。


 「…何の御用でしょうか」
 昼休みという時間にこんな不毛なところに来たくないんだ。という視線を声とともに投げつける。
 キリアは職員室があまり好きではなかった。何となく窮屈になるような空間で、入っていて息苦しくなる気がするからだ。
 担任の宮沢はノートパソコンに目を落としていたが(パソコンの隣には弁当が置いてある。たこさんウインナーが入っていることから、多分愛妻弁当である)、声に反応してキリアの方を向いた。宮沢は英語を教えている教員で、今年で三十三になる。中肉中背の色黒の男で、体育教師かとも間違われることがよくある。細かいことを気にしすぎるたちで、なにかとしつこい。生徒からの人気は薄かった。
 「調子はどうだ」宮沢が聞く。この教員は本題に入る前に、どうでもいいことを何問か質問する癖があった。
 「まあまあです」
 「授業は寝ていないか」
 「寝ていません。あまり」
 「家庭学習はしているか」
 「少しは。……あの、なんでしょうか」
 早くここから出たい。こんな窮屈な空間にいつまでもいたくない。屋上に行って思いっきり新鮮な空気に触れたい。そのためには急速にことを済ませねばならぬ。
 宮沢は机の引き出しを開けて、半透明のファイルを取り出した。ファイルには数枚の書類が入っているようだった。課題。多分、違う。
 ファイルはキリアの手元に渡った。
 「今月――今日って六月二十五日だよな?で、これは四月から昨日までの無断欠席者をリストアップしたものだ。昨日の放課後藤崎先生から渡された」
 藤崎先生は、一年生のクラスを担当としている(キリアは何組かは知らないが)音楽教諭であった。今年音大をでたばかりの若い女である。音楽教師は二人いて、キリアは藤崎ではない別の教員に教わっていたから直接的なかかわりはない。ただ、背が低いのと、うつくしいソプラノの声をしていたのがキリアの中で印象に残っていた。
 見てみろ、と宮沢が言う。外観からファイルに入っている紙の数は数枚だと思っていたが、本当は一枚しか入っていなかった。半透明のためファイルの外からだと文字がよく見えない。
 取り出してみる。無断欠席者のクラスと名前しかかかれていなかった。次の通りである。


   一年B組 嵐山善
         黒城可南
         峰倉誠
   一年D組 葉瀬本亞理魔
         風上令也
         神崎琴姫

   以上、六名。

 「この六人の無断欠席は昨日まで続いたわ。嵐山君が約一ヶ月前からで、黒城さんたちは六月に入ってから一回も登校してないわ。それで嵐山君にも黒城さんにも峰倉君にも――自宅に電話してみたけど誰も出なくって家にもいなくって」
 紙から目を離して前を向くと、いつの間にかいたんだか藤崎先生が宮沢の隣に立っていた。そのときキリアはこの人が可南の担任だったんだと理解する。
 と……藤崎の発言に疑問が残る。
 「……昨日まで?昨日までっていうことは、今日はどうなんですか?」
 冷静に、キリアが藤崎に聞く。藤崎は暗い顔をしていて、普段の小さい容姿から一回りぐらい縮こまって見えた。
 「……今朝ね、こんなものが届いてたの。今私が持っているのは自分のクラスの分だけだけど、葉瀬本さんたちのクラスにも届いていたわ」
 藤崎は持っていた茶封筒を見せた。茶封筒は全部で三つある。すべてに「退学届け」とかかれていた。
 キリアは黒城可南の茶封筒から、一枚の紙を抜き取る。
 諸事情により、私、黒城可南は、この学校を退学することになりました。
確かに可南の文字だった。多分、他の五人も同じことが書いてあるだろう。
「葉瀬本さんのクラスにも同じ物が三つ届いていたわ」
 しばらくの間、キリアは瞬きせずそれを見つめていた。諸事情。一体何の理由で。
 「あなたなら、ほら、黒城さんと仲がいいじゃない?嵐山君とか、峰蔵君とか、あと消えた人――皆黒城さんに親しいでしょ?一気にそのグループが消えて、でもわたしのクラスとか、一学年の人はね、不思議なことに消えた五人以外黒城さんとあまり接点がないというか――そう、なんとなく遠巻きに見ていたみたいなのよ。仲良かった子は皆消えちゃったし。私が勝手に思ってることなんだけど、多分、消えた子達皆一緒に行動していると思うの。それで黒城さんはあの中でリーダー的存在だったし。私が知る限り次に黒城さんと仲がいいのはあなただから。だから何か知っているかなぁと思って、宮沢先生に頼んで呼んでもらったの。何か知っていることないかしら?」
 藤崎はかなり気が動転しているようだ。一言一言落ち着きがなくて滅茶苦茶で、目の焦点があっていない。確かに、一気に六人も退学するということは異例のことである。普通ならば、ありえない。また、藤崎はまだ教員としての経験が浅い。動揺するなという方が無茶な要求である。
 言いたいことと藤崎自身の考えをまとめると、『家に行っても誰もいない』、『電話にもでない』という二つの事実から、可南たち六人は消えた、すなわちどこかに失踪したと結論付けた。と、キリア以外に消えた人と接点がある人物がいない。しかも、中心的人物だと思われる黒城可南と一番仲がよかった。消える直前に何か変な行動や、言動はなかったか?
 ただ、事情を知らないキリアには、答えるべきことばを持っていなかった。
 「…可南や善君がずっと学校を休んでいたのはなんとなく知っていましたが……」
 どうしてこうなったか、わたしはなにもしりません。
 職員室のコピー機がうるさい音が、キーボードを打つ複数の音と、話し声と、キリアのことばとに重なる。うるさい音。耳障りでいらいらするがちゃがちゃした雑音。それらは目の前にいる女生徒が言った、引力を持つことばのせいで、藤崎の耳には届いていなかった。
 「これ、今日届いたものだから、明日までに何も連絡がなければ、私は校長先生の所に届けて受理してもらわなきゃならないの」
 それで、本当に、この学校にはいなくてもいい。
 「本当になにもしらないの?」
 再度、藤崎が聞く。答えはおなじだった。今度は口を使わないで、首を横に振るだけの返答。さらさらとした黒髪が小さく揺れる。
 「…わかったわ」
 多分もう連絡もないだろうから、渡しちゃうわね。だって電話とか繋がらないし、家に行ってもだれもいないもの。D組の担任の先生にもそう言っておくわ。
 「そうですか。……それでは失礼します」
 冷静で、極めて最小限のことばを言って、教師二人に背を向けた。

 職員室の扉を閉めて、廊下に出る。梅雨の時期だが今日は天気が良くて気温が高い。廊下はむっとした熱気を放っている。教室も然りである。冷房のきいた職員室の空気がうらやましく思えてくる。
 屋上に行こうと思う気持ちは、職員室に置いてきてしまった。教室までの道のりを遅く歩く。
 急に、立ち止まる。廊下には昼休みだが、誰もいない。歩みをやめた足は、窓の近くに止まっていた。
 「……可南」
 小さくつぶやいて、短くため息をつく。
 可南がしばらく学校に来ていないことは、既に知っていることだった。既に知っていることだったから別段おどろきもしなかったが、あらためてそう渡されると、やはり、と確信せざるを得なくなる。可南と、善君と、その周りの友人達の姿が一気に見えなくなった。藤崎は『どこかに失踪した』とことばに出して言わなかったが、婉曲的にそういっていた。実際キリアもそう考えていた。根拠もなにもないことだが、漠然とそう思っていた。
 ただ、自分には関係のないことだ。可南には可南の考えがある。みずからの行動はみずからで決めるものだ。それに部外者である自分が妨害する隙などない。心配などをする必要は皆無を通り越して絶無なのだ。
 スカートのポケットに手を突っ込んでみると、何かが入っていた。それは、約一ヶ月前に拾った黒い羽だった。拾ったときからずっと持ち歩いていた。無意識ながらも、ずっと持っていたい、持っていなければならないという思いでもあったのだろうか。羽は光こそないが、相も変わらずうつくしい輝きを放っている。ただの羽であるが妖艶ななにかを持っている。
 ふと思い起こす。約一ヶ月前といえば、善がいなくなった頃だ。それからしばらく経ってから可南達がいなくなった。キリアが黒い羽を拾った頃と重なる。
もしかしたら、この羽が此度の事態を引き起こしたのではないか。それとも、何かが起こる予兆を表すものではないのか。
 単なる偶然か、必然である確率は極めて低い。だがキリアの目には、それが『何かを引き起こす』ものとして映ってしまっていた。
 ――なんでわたしは……
 この羽をずっと持っていたのか。もしかしたら、捨てるべきではないのか。別に持っている義務など、何もありはしないのに。
キリアはじっと、手の中にあるそれを見つめた。約一ヶ月前に拾った、正体不明の不気味な羽。そのような存在であるがために人を引きつけるなにかを持つ不思議な羽。たとえそれが不吉の前兆や、何かを引き起こすものであったとしても、変わらぬ輝きを持つ妖しい羽。その羽がうつくしければうつくしいほど何かがあるような気がしてしまう。そして、やはりそれに魅力を感じてしまう自分がいる。
 一抹の不安を抱えたまま、教室への道を歩いた。結局羽は捨てられずに、キリアの掌の中に残った。

 「へぇ〜。この人がここにいるのね〜」
 その少女は、そこで一番高いところの屋上に立っていた。少女がいう〈この人〉の特等席あり最も愛する場所でもあったが、今は〈この人〉の姿はない。
 少女は十代中頃で、ここに通っていてもおかしくない年頃だが、着ている服装が制服ではないというから、ここの生徒ではないとわかる。量が多く、長くうつくしい銀髪は、清涼感にあふれてきらきら輝いた。深い色の瞳はラピスラズリを思い出させる。風が吹くたびに、銀の絹糸と白いスカートがなびく。
清楚ということばが一番似合う、ごく普通の少女だった。
「それにしても来ないわねぇ。来ると思って折角待ってたのに」
 可愛らしく、頬を膨らませる。同時に、手にあった写真に目線を当てた。黒髪の、大人びた雰囲気とあどけなさが入り混じった顔を持つ女が映っている。すっとした顔立ちで、水のような透明さを感じさせる、神秘的なものを持っていた。一目見て綺麗だとわかる。少女曰く、〈この人〉である。
 「ま、いっか。会う機会なんていつでも作れるもの。それに、今日はいろいろ忘れてきちゃったしね。かーえろっと」
 そう言って、本来ならば死んでもおかしくない高さの屋上から飛び降りる。少女の軽い身は、心臓が止まることも大量に血が出ることもなく、静かに地についた。
 後には少女がいたことの痕跡すら残らなかった。

 

 


なかがき

2005.8月某日 クロサキイオン宅パソコンの前で。
序文から約3ヶ月が経過しております。遅くなりました。自分の筆の遅さを呪いたくなります。
しかし序文に引き続き、上手い具合に恥が捨てられたようです。
まぁ、書きたい時に書く、書くこと書きたいことができたらパソコンの前に、構成が決まったらワープロを機動させる…こんな感じでした。
ワードファイル4枚半ということでたいした長さではないのですが……。少しダラダラしたところがありますから。。
コレで読む気が萎えた方に、申し訳ありませんと言いたくなってきます。
しかもものがたりがあまり進んでませんし。
それなりに時間をかけたのですが矛盾が生じそうで激しく不安です。
多分一部を一通り書き終わったら全面的に一部改稿すると思われます。

それにしてもキリア、一話が思うように進まなかったのは彼女の不機嫌と暗さから来ているわけです。
設定上では暗くないことになっているんですがね。多分、これから明るくなります。きっと。

文章などは友人や兄貴の助言を多数頂きました。
多分これからも彼らに世話になります。特に後者に。(にやり)

それではマメタさん編の主人公、可南が消えたところで二話に続きます。

 

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