二話 王子様と再会したよ!



 

 樹の影に隠れながら、クラウは考えてみる。
 別にクラウは、ヴァシリーが持ってくる「この手の依頼」を心の底から嫌悪しているわけではない。しかし、率先しては受けたくないのだ。ヴァシリーにも言っているように、基本的に自分は「遺跡探索者」であり、害獣を倒すような仕事を受け持つ職業に身を置いていない。本職ハンターに申し訳もなかろう。
 それ以外にも理由はある。
 遺跡探索者を目指すと決める前。純粋にクラウは、それが普遍的に正しいことだと思っていた。武術の腕を磨いてきた一つの理由は、その為だと言ってもいいかもしれない。
「オークが一〇体、グールが一〇体。全部で二〇体。……依頼書通りだな」
 数が多すぎだ、殺す気か、とぼやきながら、指で害獣の頭の数を数えていく。腐ったからだで人肉を食すのがグール、岩のからだを持つ巨人がオークである。よくもまぁここまでたまりに溜まったものだと思う。二つの群れに分かれているのが少しばかりの救いではあるが。
 ヴァシリーから渡された依頼書には、ダラス郊外の森に害獣が多数出没しており、住民に被害が広まらない内に討伐すべし、と書かれていた。
 人間は正義が大好きだ。悪だとしたものは、「正義」の名前の元にもみ消すことが出来る。
だが、それが人間外にとって必ずしも良き事であるとは限らない。世界上の生物の一種類であるだけの人間が作った、単なる基準に過ぎない。
単純な力だけで見ると、本当は、この地上の中で人間が一番弱いのかもしれない。かつては、あらゆる獣におびえていた。その人間が持っていた最大の武器が、思考能力だった。爪もなく、牙もない人間は、考えた末に手を使うようになり、考えた末に火を持つようになり、考えた末に爪と牙の代わりを手に入れた。弱かった人間は、いつしか世界の中心になった。
遺跡探索者という職業に身を置いていると、人間の面白さに気が付く。歴史を紡いだのも、文明を作ったのも、全て人間だ。
だが、同時にこうも思うのだ。
「人間は考えた末に、あらゆる物事に境界線を引き、自分たちが害悪だとみなしたものを排除するようになった……」
 それを教えたのは、一体誰だったか。
 目を瞑って深く呼吸をする。肺に酸素が送られる音を聞くと、全身が冷水に浸かったような心地になる。潜ったことのない深海は、こんなイメージではないだろうか。
「さて……」
 余計な感情を排除する。これからは命に関わってくる。そういった問題よりも、今は当面の生活費の方が大事だ。
 腰には二本の槍が装備されている。正確に言えば、二本で一組の双槍。ただし、両端ではなく片端だけに刃がつくタイプ。切断効率を考えて刃の反りは長くしてある。全長は一メートル弱。攻撃力にはあまり期待は出来ないが、その分小回りが利いて動かしやすい。
 相手方はまだこちらに気づいていない。
木の陰から飛び出したクラウは、一番近くにいたグールの背後に回りこみ――両手に持った双槍で胴を薙いだ。グールの体は横真っ二つになり、地に沈む。そのあとに心臓を貫くことも忘れない。卑怯といえば卑怯な手だ。だが、手段にかまってはいられない。
 倒されたグールをみて、他の個体が存在に気が付く。そこから、本格的な戦いが始まった。
 双槍は専門学校時代、武術の授業で教官に薦められた武器だった。どの角度でも素早く対応できる扱いの良さ、機動力の良さ。二本の槍を同時に、かつ自在に操る技術は簡単に手に入るものではないが、すぐに身体の一部のように扱えるようになった。
 二本の槍を器用に回転させ、自分の手足のように自在に操っていく。グールは腐っている分、体がもろい。一体一体を確実に仕留めていく。
 本当に厄介なのはグールではない。見えない角度から、確かな殺意を感じた。
「……!」
 オークの爪が一閃される。クラウはそれを、視界の右端で捉え、後方に飛ぶことでかわした。あと一呼吸遅かったら、脳漿が辺りに飛び散っていたかもしれない。右側の額から血が飛び出た。
 距離を取って再び木の陰に身を隠す。傷は深くはないが、流れて出る赤い液体は視界を阻む。
手の甲で乱暴に拭う。両手に持った双槍を構え直し、呼吸を整える。
 額から血を滴らせたまま、木の陰から躍り出た。あと十体以上、相手にしなければならないのだ。双槍でグールは倒せても、オークを相手にするには弱すぎる。
「……あの野郎、後で料金以上ふんだくってやる」
 金貨百枚ではわりに合わない。右手にした槍をオークの一体に投げつけ、その隙に質屋から取り戻してきた愛剣を抜いた。

 *

 差し出された紅茶の温度が、そのまま待たされた時間を表している。暫くお待ちくださいと言われて、既に三十分以上の時間が経過していた。やることがなくなったヴァシリー・アトウェルは、通された部屋の観察と、思考をめぐらせることに時間を当てていた。
世界に主に広がる四つの宗教の一角であるアレイス教の概要はざっと話すとこんな感じだ。神の右手が一人の子供をこの世に遣わした。その子供は神の子であり、彼は世界各地を旅しながら、四つの事項を説いた。完全なる世界平和。神の愛と隣人への愛。神から与えられる罪のゆるしによる心の平安。死後の安寧の約束。神の子は約四十年間各地を回ったが、第一大陸の西の果てで病死したという。彼の活動と言葉は、弟子たちによってまとめられ、今ではそれが聖典になっている。
愛に満ちた宗教。一言ではこのように表せるのではないか。自らを神の子というのが超次元的で宇宙の何かと交信しているとしか思えなく、理解しがたいのだが、宗教の開祖者にはある意味で必要不可欠なものだろう。
 その、アレイス教最大の教会、聖アントニオ教会の一室は、まず、無駄に広い。座り心地の良すぎるソファに、やたらと高そうな調度品の数々。ティーカップは有名なブランドのものだ。この部屋の家具全体は、一体自分の月収かける幾つだろう。寄付やら献金は実はこういったものに消化していくのではないだろうかと邪推してしまう。街の統治者でアレイス教のトップである法王ルカ二世は、生活は質素倹約を旨にしている噂を聞いたことがあるのだが、このギャップは何なのだろうか。
 ルカ二世の噂はおおむね良いものだ。叩いて飛び散ってくる埃のような黒い噂は皆無といっていい。齢七十五歳を超えているが、世界平和への訴え、演説や布教活動、多宗教との対話などでめまぐるしく各地を回っている。これで死後、彼に祈った人間の願いなりなんなりが成就されれば、間違いなく彼に列聖されるだろう。
 列聖された聖人は、神と、神の子の次に畏敬される。
 例えば人気の聖人といえば、ダラスでは聖ガブリエラ。先日ひと騒動あった聖像の人物は、七百年前に存命した修道女だ。数多い逸話を残す彼女の伝説は、大きいもので三つある。一つは、その右手に癒しの力があり、どんな傷でも彼女が触ると完治する、というもの。次が彼女に祈った人間の病気が治った、というもの。もう一つは、彼女が流した涙が石に変化した、ということ。それが『聖ガブリエラの涙』だ。
 前二つは様々な史書に書かれている出来事だが、現代では確かめようのない、かつて存在した人物に関係がある、過去の事象である。それでも記され当然のように伝聞していったということは、一概に嘘とは言えないのかもしれない。
 では『聖ガブリエラの涙』はどうなのか。聖人たちの偉業を記した伝記の中に、石の外的特徴と概要が数行だけ記されている。幻の一品、とも言え、存在すら危ういものだとされていたのだ。
 今回、その『聖ガブリエラの涙』と言われるものを、発掘してきたのがあの問題児だった。
 本来ならば、とヴァシリーは考える。あの黒褐色の髪の青年は、数多い遺跡探究者が発掘に失敗してきた事実も鑑みて、かなり大きな発見をしてきたのだ。その功績をほぼ無に帰すようなこともしでかしたのだが。月末の祭りを考えると、聖像の修復を担当するであろう石工職人に対して申し訳ない気分でいっぱいになる。
 だが、一応は最大の目的は果たされていた。『聖ガブリエラの涙』の存在の確認に、それの発掘。依頼側である教会が最も望んだことだ。仲介者として、損害を開き直るつもりはないが、恐らくあの問題児が聖像を破壊してこない限り、見つからなかったものだろう。
 この遺物探しに、ルカ二世は全く絡んではこなかった。多忙なことも関係してはいるだろうが、一番は思想の問題なのではないかと思う。聖人畏敬はよろしいことだが、行き過ぎると神と神の子に対する冒涜にもつながる。聖人は我々の先達であり、尊敬すべき偉人ではあるが、神と神の子ほどに敬う存在ではない。裏を返せば彼らはあくまで唯の修行者であり、我々と同じく信仰者である。神の言葉なる聖典のみに従い、純粋なる信仰によって神に祈りが届き、初めて心に平安と光が訪れる。これが、ルカ二世が主に説いていたことだ。
 依頼者は大司教の一人だ。大司教の中でも、黒い噂はなくともルカ二世をよく思っていない人物は存在するらしい。表面上は穏やかだが、意外に内面に問題は多いと聞く。細かい思想や解釈の議論はともかくとして、誰々がどの修道院長の地位を狙っているだとか、誰々が大司教の地位に就くまでには実は聖職売買が行われていただとか、法王ルカ二世の暗殺事件が実は内部で行われていたとか、そんな噂が絶えない。どんな組織でも、内部の問題は避けられないのだろう。それが一つ大きな宗教であっても。
 大司教同士も次の法王が誰かと争ってもいるらしい。これは、先ほどヴァシリーを案内した牧僧が口さみしさに話していたことだった。
先ほどヴァシリーを通した人物は、茶色の修道着を着ていた。一定の地位の牧僧でないと法衣着用は許されない。叙階はしたが礼拝司式は行えない下級の牧僧だろう。少なくとも四十は超えていた。痩せ型で、血色が悪く、ひょろひょろとした外見はカマキリを連想させた。落ち窪んだ眼が印象的な男だった。話を聞くと、二週間ほど前にアントニオ聖教会に配属されたのだという。元々居た修道院は確か――
 ――と、海の底に潜り込んでいたヴァシリーの思考が止まった。
扉が開く音がしたからだ。
「お待たせしました」
 ヴァシリーに仕事を依頼してきた、アレイス教の聖職者だ。アントニオ聖教会
の大司教であり、全ての司教のまとめ役。この宗教で実質的に二番目に偉い人だ。叙階名は確か、フランシスコだったと記憶している。
 だが特に信奉心を持ち合わせていないヴァシリーにとって、目の前の人物は依頼人以外の何者でもない。さらに彼は、長時間人を待たせるという行為が嫌いだった。それを強要する人間もしかりである。
そんな人物に、三十分以上待たされたのだ。
「書類一つ用意するのにそれほど時間がかかるのですか」
 皮肉の一つでも言いたくなる。
「告解が長引いたのですよ。最近、神に懺悔するのが若者の流行りらしいですよ」
「それはそれは」
 自分の行動に自覚と責任を持てない人間がする行為だ、とヴァシリーは思う。わざわざ懺悔しないといけない意味が分からない。万か一自分が神に許しを請う時は、死ぬときの一回だけだと思っている。それでも縋る気はさらさらない。
 だから、わざわざ告解に来る人間の気持ちなど、わかるはずもなかった。適当な相槌をフランシスコ大司教に返した。
「さて、聖ガブリエラの聖像破壊の件なのですが」
 居住まいを正して福司教が切り出す。同時に、書類――これのために三十分待たされた――をテーブルの上に置いた。
「修復費と罰金なら持ってきましたよ」
 懐から金貨の詰まった布袋を取り出す。幾ら払うかなど考えたくもない。ヴァシリーの年収以上の金がその中にあるはずだ。問題児の顔を頭に浮かべ、あの子は本当にもったいないことをしたと思わずにはいられない。ヴァシリーだって罰金という面目で金を払いたくはないのだ。
「……『聖ガブリエラの涙』は一緒ではないのですか?」
「まだこちらのものです。祭日までには持っていきますので、ご安心を」
 規則として。発掘品はいかなる事情があれ、一定期間は協会が保管する。その間、協会が抱えている専門家が、発掘品が本物であるかの真偽を確かめ、傷の有無や修復を担当する。
 司教の小言はまだ続く。
「聖像破壊の張本人はいないのですか」
「彼は忙しいのですよ。今は奉仕活動に精を出しておりますよ」
 嘘は言っていない。聖像を破壊した人物は、報酬が支払われるため「奉仕」ではないが、現在ダラス郊外の森で文字通り死闘を繰り広げている。連れてくるとややこしい上に面倒なことになりそうなので害獣退治に放り込んだ、といったほうが正しいのかもしれない。勿論、本人が嫌がっていることも重々承知したうえで、本来下げる必要もなかったはずの頭を下げさせたことに対するイヤガラセも込められている。
「十分反省しているようなので、これ以上は不問にしていただけないでしょうかね。罰金も払いますし。こちらでそれなりの処分はしますので」
「……分かりました。以後注意して下されば結構です」
 注意しますよ、本人の破壊癖が直るかどうかわからないけれど。と、声に出さずに、心の中でつぶやいた。
 用事はこれだけだ。三十分待たされたが、これでこの件に関しては一通り終りになる。後は、祭りまでに遺物を渡せばいい。
 書類を手に取り、口を付けない紅茶をそのまま置いて、一礼して部屋から去ろうとした。
「それからもう一つだけよろしいですか?」
 大司教の一言が、扉を開くという行動に静止をかけた。
 まだ何かあるのか。振り向くことさえ億劫になりながら、大司教に向き合う。鏡を見れば、仮面をはり付かせたような顔をした男の顔が確認できるだろう。
「一ヵ月ほど前、ポールドールで修道院長が死体で発見された事件を知っていますかね」
 それは新聞で読んだ。ポールドールのヘリバート修道院長は、今度大司教への昇進とアントニオ聖教会への異動が決まっていた。ほかの大司教や目の前にいるフランシスコ大司教に次いで、ルカ二世の後継者と目されている人物の一人だった。寧ろ、他の大司教を差し置いて彼を次期法王へと押す声も多かった。
 ポールドールはダラスから北に位置する町だ。ゆったりとした丘に面しており、ヴァシリーは一度しか訪れたことはなかったが、昔ながらの伝統をそのまま受け継いだかのような雰囲気と落ち着いた町並みが印象に残っている。
「どうやらその事件の重要参考人が、最近この街に現れたらしいのです」
 そりゃ大変だ。しかし、一ヵ月前の事件の犯人が未だに逮捕されていないというのも変な話だ。警察が間抜けなのか、その犯人がよっぽど周到に逃げているのか。どんな理由があれ、殺人犯が捕まらずにその辺を闊歩しているのは、治安上よくはない。
 だが……。
「そういう話は私ではなく、警察に言うべきなのではないですか」
 ヴァシリーの主な仕事は、遺物の保護のほかに、遺跡探索者と依頼者である博物館やら宗教法人を繋ぐ橋渡しだ。仕事柄、大学やら宗教法人やら、色んな場所に足を運んでいることもあり、顔だけは確かに広い。
だが殺人犯の捜索、なんて頼まれても困るのだ。言った通りそれは警察の仕事だ。それはフランシスコ大司教もわかっているのではないか。
大司教は笑みを崩さずに言葉を重ねる。
「依頼ではありません。善良なる市民に言っているのですよ、アトウェルさん。勿論警察にも話は通しております。ただ、あなたも十分に気を付けてくださいと言っているのです。相手は殺人犯です。早く罪を悔い改めなければなりません。そのためには、あなた方市民の皆さんの協力も必要なのです」
 犯人の人相書きなどの外見的特徴は、不自然なほど出回っていない。となると、フランシスコ大司教は何かを掴んでいるのだろう。
 そしてここまで言い募ってくるということは、何かの関係があってのことなのだろう。ヴァシリーというか、協会や遺跡探求者に。
 ついでに言えばポールドールには保護協会がないので、ヴァシリーの管轄になる。
「……有力な情報か何かありますかね」
 あなた方市民、というが、大した狸だ。大司教は懐の中から、白い包みを取り出した。
「これです」
これが一体、どう関係があることやら。苦いものを感じながら、ヴァシリーは包みを開いた。

 *

 汗と土にまみれ、日が暮れてきた頃、再び協会内に足を踏み入れた。目的はもちろん、今回の報奨金である。
 だが……
「いないのかよ……」
『室長室』と掲げられた部屋には、鍵がかかっていた。
「あら、クラウ君」
 どうしようかと立ち往生していると、後ろから声をかけられた。
後ろに立っていたのは、長い金髪を後ろに流した女性だった。部屋の主とは打って変わった好人物。彫の深い顔立ちに、形のいい長い脚。血色のいい頬の色は、アメジストの瞳とよく似合う。薄い唇は濡れた花弁のように艶めいていている。どの角度から見ても文句のつけようのない美女だ。
美女の名前はキーラ。ヴァシリーの秘書を務めるこの女性は、かつては直属の上司とともに遺跡に潜り込んでいた。だが、隙のない薄化粧やマニキュアが塗られた爪などを見ると、遺跡よりも舞踏会の方が似合っている。それが事実だと物語っているものといえば、指にはタコと節くれが目立つことぐらいだろうか。
「キーラさん。ヴァシリー……じゃなくて、室長殿がどうやらいらっしゃらないようなので」
 室長殿、と言いなおしたクラウに、キーラはくすりと笑う。慣れ親しんだ人間に対する敬語は、恐ろしいほど使いづらい。特に、慣れ親しむ、を超えてほとんど身内のような人間に対しては。キーラはその事をよく知っているのだ。
「残念だけど、室長は午後ずっと外に出ているの。話は聞いているわ。ちょっと待っててね」
 キーラは鍵を回して部屋を空ける。
「そういえば室長が言っていたわ。『聖ガブリエラの涙』を発掘してきたんですってね」
「……損害のほうが多いですけれどね」
「でも凄いじゃない。今まで誰も見つけられなかったのよ?」
 あのブタ野郎、また他人に言いやがったのか。
 だが、キーラの一言には救われる気分になった。破壊活動の方が先行して出歩いているので、結構な発掘をしてきたのを自分が忘れてしまっていたのだ。
「何でこの人があの野郎の婚約者なんだろうなぁ……」
 世の中はよくわからない。クラウはキーラに聞こえない程度の大きさで呟いた。
「はい、これが今日の分。お疲れ様」
 渡された皮袋は、午前にもらったものの数倍の重量はあった。契約以上の料金を越していることはないだろう。まさかキーラからふんだくる訳にもいかない。タイミング悪ぃなと内心つぶやいた。
 それでも久しぶりの収入なので、嬉しくないといったら嘘になる。滞納していた家賃もろもろを払っても、十分過ぎるおつりが来る。
「あと、室長から伝言があるの」
 伝言と聞き、にやついていた顔が引きつっていくのを感じた。
まさかではないが、また害獣退治でも頼まれるのではないか、という喜ばしくもない予感があった。クラウの危惧を読み取ったキーラは、違うみたいよ、と一言添えてから、
「さっき少しだけ帰ってきたときに聞いたから、私にもよく分からないんだけれど」
 曖昧に笑う。秘書のキーラにも明らかにしていないのは珍しい。
一体奴は何をやっているのやら。
「で、何ですか?」
「それはね……」

 *

クラウの現在のねぐらは、ダラス市内に幾つも存在する月金貨五枚のワンルームアパートである。安い原因はもちろんある。要するに古いのだ。保護協会が探索者のために格安で貸しているアパートもあるのだが、一年前ダラスにやってきたとき、その存在を知らずに安いという理由だけで現在の部屋を借りた。以来、ヴァシリーから幾度か移り住むことを提案されたが、最初に住み着いた部屋から何となく出る気にならず、現在に至っている。引っ越し手配料がもったいないのと、家賃が現在の部屋よりもナンボか高いのと、荷造りが面倒くさいという理由も含まれる。
そんなボロアパートの鍵を指先で弄びながら、アパートの裏の管理人宅に向かい、滞納していた家賃を払う。今日は金を貰って払っての繰り返しだ。
「珍しい。一気に払えるなんて」
 アパートの管理人の眉毛が跳ねる。二十代半ばと思しきその女性は、癖のある亜麻色の髪を払いのけ、渡された金貨を、ひい、ふう、みいと数えていった。妙に音を立てて数えるので、午前中に会った誰かさんやらを連想させるが、むしろ彼ら――金を貸したり取り立てたりする側――から、金銭面に関してよっぽど信頼がないのか。
 今までの自分の行動を顧み、仕方ないと思いつつ悲しい気分になった。
「今日は金が出来たんだ。それなりにね」
 汗と埃まみれになったクラウの姿を、管理人は一通り眺めまわす。それが「それなり」の対価であると確認した彼女は、「それなりの結果の一部」を素早く金庫の中に入れた。
「ふぅん……。何があったか知らないけど、私は金さえ払ってくれりゃいいから。あと、家賃滞納したりとか、部屋を勝手に改造したりとか、アパート壊さなけりゃね。今度から滞納したら倍増しして払ってもらうよ」
 管理人の目は冗談ではなかった。後者二つはさすがに起こしたことはないが、家賃滞納は常習犯だ。それは困る。金貨三枚の格安でそれすらも満足に払えなかったのだから、月々それの倍になんて払えない。
「……以後気を付けるよ」
 苦々しげに答えるクラウに、管理人は抱き上げた猫ののどに指を這わせる。
「だから言ってるじゃない。ひと月夜に一回、私の相手してくれれば家賃チャラにするって」
 確かに前から提案されていた事だが、何の相手だ、とも思う。専門学校時代は男子寮にいたし、今の環境でも女性とかかわる機会はけして多くない。現在は金欠病でうだつの上がらない二流遺跡探索者で、そんな人間が女性と二人っきりになって、一晩一体何をするというのだ。話し相手か、遊び相手か。正直一緒にいても何をしたらいいかわからない。
……思い違いであって欲しいが、何か一線を越えるような出来事は、想像したくない。
「……互いに気まずい思いをするだけだと思うぜ」
 率直な意見だった。血統書付きのアビシニアンレッドを抱いた管理人としばし目が合い――先に逸らしたのは、管理人の方だった。僅かに、気づく人間の方が少ないであろう角度で。
「まぁ、いいわ。それが君のいいところでもあるかもしんないしね」
 そんな会話を一通りしてから部屋についた。アパートは三階建てで、クラウの部屋は二階だ。古いアパートは、足の動きに合わせてぎしぎしと軋んだ。無理からぬ話だが、自分と、その友人以外での他の住人の姿を見たことがない。
「ん?」
 鍵を回したら、開くのではなく逆のことが起こった。つまり、閉めてしまったのだ。
「俺、鍵閉めてったよな?」
 憶に一つか、強盗でも入ったのだろうか。気味の悪さを覚えて再び開錠。警戒しながら扉を開いた。
 いつも通りの部屋。作業用の机とベッド。流し台とガス台と引き出しは借りる前から存在していた。本棚に詰まった本はどれも古本屋で買ったものだ。収納しきれずに床に散乱している。床を埋め尽くしているのは本だけではない。膨大な資料と遺跡に入るために必要なもろもろの機材――軍手、ロープ、暗視用ゴーグル、簡易的な救急セット、測定器等が投げ出されていた。部屋の隅には継ぎはぎだらけのサンドバックが放置されている。ぱっと見てなくなった物は見当たらない。
 つまるところ、見慣れた、小汚く散らかった部屋が広がっている。
 しかし、その中でイレギュラーな存在が二つ。否、二人というべきか。
 一人は銀髪の男。よく知っている顔が、長い足を組んで、火のついていない煙草――その人物の癖である――をくわえている。
つまり、同業者であり串焼き屋であり、隣の部屋の住人であるアザエル・イズリースが、机に付属した椅子に悠然と座っている。
 もう一人は――
「王子様!」
 へ? と目を点にする。
 イレギュラーのもう一人。それはつい数時間前に、ちんぴらに絡まれていた少女だった。

 *

 ――転がる石が足元にやってきた。転がる、ではなく、自分に向かって全力投球された、というほうが正しいのかもしれない。その石を、どう対処したらいいのか、よくわからない。
「――王子様!」
 見間違えようにない。つい数時間前に、ちんぴらに絡まれていた少女だった。少女はクラウの存在を確かめると、クリーム色の髪をなびかせて一直線に飛びついてきた。
「うわっ」
 想像したよりも勢いがあったので、そのまま尻餅をついて倒れる。床の上で抱き合う形になってしまった。
「情けないねぇ。普通女性って、押し倒すものだろ?」
 アザエルの極めてばかばかしい言葉を聞き流す。何故こうなったのか、とにかく問い質したい。が、この姿勢では、クラウは思ったように身動きが取れない。ぴったりと密着した少女の体は少しも動きそうにもなく、温かい息を胸に感じる。ついでに体温も。それらを意識している余裕など皆無であり、ただただ鬱陶しいだけではあったが。
「おい、いい加減離れろ! おい、おい! ……あれ?」
 自分の上にいる少女の体から、力が抜けていることに気がついた。クラウの胸に預けている少女の顔を見てみると……
「……寝てやがる……」
 両の瞳はしっかりと閉じられていた。
「あー。そういや夜通し歩いてダラスに来たから、寝てないって言ってたなー」
 アザエルの呑気な声が、妙に腹立たしく響いた。


 年間を通して、ダラスの夜は外気が冷たくなる。眠ってしまった少女を抱えて、とりあえず自分のベッドに横たえる。闖入者は彼女のほうだが、床にそのまま放置しておくわけにもいかない 。外に放り出すことも一瞬だけ考えたが……無防備な少女を放り出すのも人間としてどうなのだろう。
「アザエル。どういうことだ」
 この現実を作ったであろう張本人に詰め寄る。彼女を連れてきたのは友人なのだ。アザエルは肩をすくめて、困ったように笑うだけだった。
「話すと長いんだけどねぇ」
「長くてもいいから説明しろ。意味わかんねぇぞ」
 お手上げだ、というようにアザエルは両手を挙げる。
「じゃあ説明しよう。僕がいるのは、合鍵持っているから。このお嬢さんがいるのは、君にお礼がしたいって言うから連れてきた。以上、終わり」
「全っ然長くねぇ短ぇよ! それぐらいで連れてくるな! 百歩譲って連れてきても隣のお前の部屋に入れときゃいいだろうが! ていうかお前、何で合鍵なんて持ってんだよ!」
「そりゃ、結構前に来たとき、君が眼を離してる隙に粘土で型とっといたからさ。自分の部屋に手っ取り早い飯がないとき、君のとこから干し芋盗めるからね」
 アザエルは最後の問いにだけ返答した。慌てて食料庫のほうを見やる。非常食の干し芋の袋は空だ。最近は食べていないのにめりめりと減っていっている理由は……
「お前が原因だったのか!」
「あたりー。最近あの干し芋の、噛めば噛むほど甘さが出る感じに病み付きなんだよねぇ」
アザエルは人差し指で鍵(勝手に作った合鍵とやらだ)をくるくると回す。おかげでこっちは食糧難にあっていたのだ。金はない。食料はない。いざというときの非常食もない。あるのは僅かな調味料と公共水道で汲んできた水のみ。家賃は滞納中。本気で餓死するかと思った。
「お前なぁ! 俺はあの依頼受けるまでの数日、砂糖水しか口に入れてなかったんだぞ!」
「食っちゃったしー。まぁ、お詫びに今日の飯は、僕が奢ってやろう」
 ありがたい申し出だが、ついでに勝手に食った分も買ってくれと思う。そして、まだ貰ってない串焼き分もくれよと思う。
だが、最早なくなったもののことを言っていても仕方がない。ぐっと押し黙って、了承する。
 しかし食べに出るのだとしたら、ただひとつ問題が起こる。
「……こいつどうするんだよ」
 自分のベッドを占拠している少女を顎で指す。何が安心なのか、弛緩しきった表情で眠る少女が憎たらしい。
「……僕が、何か適当に買ってくるよ。寝ているけど、ほとんど面識ない人間を自分の部屋で一人にさせたくないだろ」
 後半部分はもっともなことだが、お前が勝手に連れてきたんだがろうが、と心の中だけで突っ込みを入れた。そして、今度管理人に頼んで鍵とドアノブを変えてもらおう、と決意した。

 *

 アザエルが出かけていった。眠る少女はベッドの上。状況は奇妙だが、こうなった以上考えても仕方がない。この場につれて来たのはアザエルだが、そもそも彼女を助けたのは自分自身だ。
起きる気配は全くないので、少し眼を離しても大丈夫だろうと判断した。風呂場に直行し、衣服を脱いで蛇口をひねる。
 思った以上に擦り傷と打撲痕が目立った。額に貰ったオークの爪をはじめ、細々とした軽傷のほかには、額と肩にもらったオークの爪が一番目立つ傷になっている。害獣退治は常に死と隣あわせだが、ヴァシリーが持ってくるこの手の依頼の中で、今回がもっとも苦戦した。
 二十体の害獣を一気に相手したことはない。数ももちろん原因の一つだろうが、一番はどうも、体が鈍っているような気がしてならない。
 頭から湯を被り、さっぱりしたところで長袖のシャツとブラックジーンズに着替える。額をはじめとして、傷口の手当も忘れない。
 風呂に入り、手当をし終わったところで、アザエルが帰ってくるまで何もやることがなくなってしまった。
 暇になってしまったクラウは、暫くサボっていた日課のトレーニングを行うことにする。簡単な柔軟運動で筋肉をほぐし、部屋の隅に置いたサンドバックを天井から吊るす。
 一回体が鈍ってしまったら、取り戻すのに時間がかかる。金欠と飢餓状態が続いていたため、最近は体を動かすことも億劫になっていた。これ以上の怠りはやばい。今日という日が、依頼に失敗していようが、害獣と戦って疲れ果てていようが、知らない少女と何故か部屋で二人っきりという謎の状況に身が置かれていようが、己の身を鍛えるという前では関係のない事実だ。
 机の上に放置されているグローブを嵌める。レザー生地で、指に穴が開いて手首を固定する形のグローブだ。サンドバックを、まず左右から拳の連打。それから下段から中段、上段での蹴りの連打を行っていく。突く、もしくは蹴るだけではなく、掌底打、肘打ちなどもバリエーションも入れて。
打つたびにサンドバックは大きく揺れた。これが人体ならば、今頃は骨折と打撲で大変なことになっているだろう。
 ヴァシリーのいうように、クラウは運動能力や格闘のセンスには不思議なほど恵まれていた。だが、天性のものだけでは手に入らないもの、そして恵まれなかったものはたくさんある。基礎体力。筋力。体格によるアドバンテージ。身長はけして低くはなく、鍛えているので筋力は平均以上を保っており、体は相当引き締まっている。体力も問題はない。しかし元来線が細く、思った以上に体格は大きくはならなかった。その年の男性にしては華奢な印象を与えてしまっている。
 劣るもの、恵まれなかったものを補うのは、日々の鍛錬他ならない。そうしているうちに、元々の才能も磨かれ研ぎ澄まされてくるものだ。
若干の矛盾を感じざるを得ない。遺跡探索者には確かにそれなりの戦闘能力が不可欠だが、害獣退治の依頼がわざわざ手元に来る探索者も珍しい。発掘や冒険だけに仕事を搾りたいと思いつつ、金に困ると引き受けてしまう。そして勤勉に鍛錬を続けている。
 左右、手足をバランスよく、リズミカルに殴打していく。そのうちにサンドバックに限界が訪れた。殴打を繰り返していたら、縫い目が解けていたのだ。右の拳が、サンドバックを貫いた。
 サンドバックが破れて、中の砂が溢れ出す。床一帯に、茶色の絨毯が広がった。
「あー……、やっちまった」
 後ろ頭をかいた。
 引き出しの中から裁縫道具を取り出した。砂を集めて、サンドバックを縫い合わせないといけない。
 激しい打撃音が響いていたにもかかわらず、少女は安心しきった表情で眠り続けていた。そして、起きたら追い出そう、とやはり密かに決意したのだった。

 *

 藍色に染まった街中を、アザエルは足早に歩いていく。大通りから路地裏へ。路地裏から路地裏へ。宗教が最大権威の国であり街であるが、いわゆる裏町というものは存在する。合法でない娼婦宿や会員制のバーなどが並ぶ、人気のない薄暗い街の裏へと進んでいった。
『ファルセット』は地下一階に店を構える酒場だ。酒と音楽を静かに楽しむ場末の酒場で、狭いが酒の種類が豊富なのが強みだ。店内の照明は最小限に抑えられている。店員は全員男で、客も男性限定だ。ホストクラブとかゲイバーではないらしいが実際はどうだかわからない。数回足を踏み入れたが、アザエルはどういった趣向の店なのだかいまだに把握できなかった。
 そしてこの店の常連なのが――。アザエルは目的の人物を探す。
すぐに見つかった。
「やぁアザエル」
 目的の人物は、アザエルの姿を確認すると片手を軽く上げた。その人物は近くにいたギャルソンに、ウィスキーを二つ注文する。
「ここにくればいると思いました」
 親友は老け顔と評しているが、目的の人物――ヴァシリー・アトウェルは客観的に見ても美男だとは思う。本人は適当にくくっていると言っているが、流れと艶のある黒髪に、知性を感じさせる切れ長の瞳。端正な顔立ちに、思考を読み取らせない雰囲気を持たせながらも、人を惹きつける華やかさも併せ持っていた。ミステリアスというよりも胡散臭さが勝っているのだろうが、それが一種のカリスマ性にもなっているのがなんとも不思議だとアザエルは思う。
 グラスが二つ運ばれてきた。給仕をしていたのは金髪碧眼の美青年だった。やや童顔で、白と黒を基調とする給仕服がよく似合う。十八、十九歳ほどで、自分と同い年ぐらいだろう、とアザエルは推測する。ヴァシリーは「ありがとう」と青年の耳元で囁く。唇が、少し耳朶に触れていた。青年は顔を僅かに赤くして足早に去っていった。純情な子だ。
 アザエルはウィスキーのグラスを傾けてその様子を傍観していた。ありきたりなようだが、シネマの一場面でも見ている気分になる。
「……お気に入りの子?」
「ただのサービスさ」
 どういうサービスなのだか知らないが、深く考えないことにする。相手は自分より数枚上手だ。
「こんなとこ見られたら、キーラさんに怒られるんじゃないんですか」
「それは大丈夫。『そういうところも含めて貴方のことが好きよ』って言ってくれるから」
「奇特な人ですね」
 奇特というより、どれだけ天使な人なのだろう。なんというか、世の中よくわからない。
 灰皿は空いている。ヴァシリーは酒を好むが煙草には手をつけない。アザエルは空の灰皿を自分の手元へと動かし、持ち歩いているシガレットケースの中から、燐寸と一本だけ煙草を取り出す。ニコチンが一本につき十四グラム以上入っているものだ。へヴィな煙草を、度数の高い酒を飲みながら吸うのが好きだ。味覚が狂うので一日一本以上は吸わないが。
「それで? 君がわざわざここに来たってことは、何か報告でもあるんだろう?」
 急に、ヴァシリーの眼がすっと細められ、冗談の要素が一切そぎ落とされる。いくら冗談を言っても仕事は真面目だ。
深く息を吐き出す。アザエルは灰皿に、吸い始めたばかりの煙草を押し付けた。






誰が一番書きやすいですかと問われたら、それは主人公ではないような気がしています。
いろいろ試行錯誤しながら書いているのですが、どうにもこうにも進みません。しかし、1話から一年以内に2話をアップロード出来たことにちょっとした安心感がありますよ。 だってブラックウイングは4年に一度しか更新してな……何でもないです。尚、2話中で日本国的に未成年が酒を飲んでいるシーンがありますが、脳内設定として19歳以上が成人ということにしています。日本人はお酒は二十歳になってからですよ。

すこーしずつですが、お話が進んできた感があります。 長い目で待ちながら楽しんでくださると幸いです。



2012.07.31 クロサキイオン









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