人体模型の夕暮れ



左小指の、縫合の痕をじっと見つめる。
 それを見て、パッチワークのように、布と布をつなぎとめたみたいだ、と思えてくる。

ぼくの左小指は、つい最近、取れてしまったが無事戻ってきた、幸運の指だ。切れ味のいい包丁でよかった、と思う。これで切り口が綺麗じゃなかったら、ぼくの小指は本当に刺身になっていたのかもしれない。それはそれで、後の笑い話にでもなりそうだが、小指が無くなって不便になるのはぼくだ。笑い話になっても、あまりいいメリットにはならない。くっついて、正常通りに動いてくれている。本当に戻ってきてよかった。今まで、小指が動いた事にこんなに感謝したことなんてあっただろうか。いや、ない。断言できる。
 だけど、たまに考えることがある。本当に小指が戻ってこなかったら、どうなるのだろう、と。
 刺身になるかもしれない、と考えるのは、切れた場所が調理実習中の家庭科室で、眼の前に刺身として捌くはずだったカツオがあったからだ。もし、切れた所が調理実習中の家庭科室ではなく実験中の理科室とかだったら、刺身ではなくホルマリン漬けになって、理科準備室に飾られていたかもしれない。通りがけに、犬に噛まれたりしたら、そのまま犬の胃の中に収められてしまうのかもしれない。
 まぁ、刺身になるにせよ、ホルマリン漬けになるにせよ、犬の胃の中に行くにせよ、前述の通り、ぼくにとってはデメリットにしかならない。結果オーライ。もしものことは、ファンタジーということにしておこう。
 小指で感じるファンタジー。
それも中々シュールなのではないか、と思う。

 隔週だが、ぼくは放課後になると掃除のために理科準備室に向かう。理科準備室は科学室と扉一枚で繋がっている、小さい部屋だ。そんなため、掃除要員は少なくて済む。ぼくが担当している週は、ぼくと、小森さんという女子生徒だけだ。そういえば、ぼくは自分が何故理科準備室の掃除担当になったのか、その経緯が全く思い出せない。大体の見当は付く。ぼくがいつだったかのホームルームの時間に爆睡していたので、その時に勝手に決められていたのだろう。
 しかし、前の週の人が相当やる気がないらしく、ぼくが月曜日に理科準備室に行くと、棚なんかにうっすら埃がたまっている、なんてことがよくある。……いや、よくあるなんてもんじゃないか。毎週のことか。
 そんなわけで、今日は月曜日だ。で、今週は掃除当番の週だ。ぼくは理科準備室に向かった。一回教室に帰るのが面倒なので、鞄も忘れない。そのまま家路を辿る。今日も適当に終わらせて、さっさと帰りたいところだ。

 ぼくが理科準備室の扉を開けると、既に小森さんが箒を持って床を掃いていた。
 小森さんというのは、ぼくのクラスメイトの女子生徒だ。ぼくは小森さんと話す機会が多い。友人と言っても差し支えのない人物だ。
 ぼくと小森さんは、掃除が円満かつ短時間で終わるように、ぼくが雑巾担当、小森さんが箒担当をしている。小森さんが箒で床を掃いて、ぼくが雑巾で棚なんかを拭く。これで、約十分で終わる計算だ。
 小森さんは一見、箒を持って真面目に掃除をしているように見える。が、頭は、隅に置かれている人体模型を見て悶えているに違いない。小森さんはこの人体模型の事をアントワネットと呼んでいる。体の半分が人体の中身になっているこの模型を、小森さんはいたく気に入っている。どうせなら家に持ち帰りたいそうだ。ついでにいえば、この科学準備室に住みたいとまで言い出している。
 小森さんは、背丈が低くて、大人しめで、その中に変な可愛さがある女の子だ。だけど、顔に騙されてはいけない。中身はすごく変人で不思議ちゃんだ。みんなが耳をふさぐようなスプラッタ映画とか、残虐な戦争映画なんかをにこやかな顔で話す。そんなとき、彼女の暗いオーラは暗黒だけど眩いばかりの輝きを放っている。光る黒のオーラ、というような。理科準備室を掃除場所にしたのも、ここに来れば毎週アントワネットに会える、といった理由からだ。理科準備室に置いてある人体模型は、体半分、どう見ても男にしか見えない。それなのにアントワネットと付ける小森さんのネーミングセンスは、ちょっとズレてると思う。もっとつけるような名前があるだろう。ごんたとか。銀太とか。
ぼくは、彼女がアントワネットと呼んでいる人体模型を、密かにすてごろ銀太と呼んでいる。この人体模型は、喧嘩がとても弱そうな顔をしている。すてごろ、というのは「素手の喧嘩にめっぽう強い」とか「素手の喧嘩専門のちんぴら」とかいう意味だ。つまるところ、反語の意味だ。こないだ「アントワネットは本当に可愛いねぇ」と呟いている小森さんの横で「ああ、銀太がどうしたの?」とついうっかり言って殴られたことがあった。結構痛かったのを覚えている。暴力反対。
逆にぼくが彼女にとって不愉快である発言をすると、「アントワネット、ユート君がいじめる」とか言って、銀太の後ろにさっと隠れる。彼女が言う白馬の騎士というのは、人体模型のアントワネットのことである。
 ――ぼくが床を雑巾で拭いている間、当の小森さんは、銀太、いや、アントワネットの頭を撫でていた。
「ユート君」
 一瞬、小森さんが誰の事を呼んだのかわからなかった。そういえば小森さんは、クラス内でぼくの事を下の名前で呼んでいる、ほぼ唯一の人だった。何故名前で呼ぶのか理由は聞いたことはないけど、やめてほしい理由も特に思い浮かばないのでそのままにしている。たまにクラスメイトから変な眼で見られるぐらいで、別に問題はない。
「昨日映画見たんだけど、『地獄の番犬いぬぽんVS理科室の人体模型』っていうタイトルなんだ」
 なんだその、B級いや、C級映画みたいなタイトル。たまに小森さんの見る映画は、悪趣味を通り越して意味不明だ。悪趣味なのはいつものこととして。小森さんはその地獄の番犬(以下略)について、面白そうに話す。ぼくはそれを耳半分で聞き流す。小森さんの話はぼくの頭の中でとどまることをせず、左の耳から入って右の耳から出て行った。主にストーリーの事を話していたらしい。途中、人体模型、薬指、科学室、ホルマリン漬け、といったような単語が聞こえた気がする。耳半分で聞いていたから、話の内容は全然覚えていないけど、単語を聞く限り、小森さんの趣味にぴったり合ったものだと思った。
 雑巾を水道で丁寧に洗い流した。絞って、準備室の適当な場所に干しておく。これで掃除は終了だ。
 さぁ帰ろうと思って準備室を出ようとしたら、小森さんに待ったをかけられた。小森さんは、悪趣味な骸骨のストラップや、ミニサイズの人体模型のキーホルダー(彼女はこれのことをルイーズと呼んでいる)をジャラジャラつけた、自分の真っ黒い鞄の中身を漁る。
 一枚のDVDを取り出した。
小森さんが昨日見たと話していた映画、『地獄の番犬いぬぽんVS理科室の人体模型』だった。
「……これをぼくに見ろと?」
 ぼくは念のため聞いてみた。小森さんはにやりと笑った。その拍子に、八重歯がちらりと見える。
「明日までに見てきてね」
 そういって、鞄を背中に背負って出て行った。
 ぼくの手の中には『地獄の番犬いぬぽんVS理科室の人体模型』が残された。
 明日までに見なければならないらしい。

 たまにというか、しょっちゅうぼくは小森さんから映画DVDを押し付けられる。理由は謎。映画は嫌いじゃない。どちらかというと好きだ。だけど、そのぼくの趣味と小森さんの行動は関係性がないような気がする。皆無に等しい。だけどぼくも、借りたんだったら見ないともったいないなぁ、という気分で見てしまう。
 小森さんが貸してくる映画のジャンルは様々だ。グロいスプラッタが中心で、サスペンスだったり、戦争映画だったり、単館でしか上映されていない日本映画だったり。マイナータイトルのものを好んでいるようだった。今まで一回も、有名なもの――例えば、興行成績が世界的にもいいものは借りたことがない。今回はタイトルから……どんなものだか、全く読めない。
 自分で作ったフォンダンショコラとホットカフェオレを手に持って、家に一台しかないテレビをつけて、DVDを再生させる。
ホラー映画でよくありげなピアノの旋律とともに、『地獄の番犬いぬぽんVS理科室の人体模型』が始まった。

 翌日、ぼくは『地獄の番犬いぬぽん(以下略)』を鞄に入れて登校した。途中、前方三メートルに可愛らしいビーグル犬がトコトコと歩いていた。茶色いたれ耳に、黒い背中。青い色の首輪は付けていたが、飼い主らしき人物は見当たらない。まぁ、犬が家から脱走しているなんてこと、ザラにある。
もしかしたら彼は地獄の番犬いぬぽんなのかもしれない、とか適当な事を考えながら学校に向かった。
 放課後になって理科準備室に入ると、昨日と同じように、小森さんが箒で床を掃いていた。昨日と違うところは、目線が銀太ではなく、棚に収納されている大量のホルマリン漬けに向いている、というところだ。
 そういえば、『地獄の番犬いぬぽん(以下略)』には確かにホルマリン漬けが棚にせましと並べられていた。それを思い出しているのかもしれない。
「ホルマリン漬けっていいよね」
 ぼくの入ってきた気配に気づいたらしい小森さんが、口を開いた。
 ははぁ。そんな事に突然同意を求められても。でも確かに、ホルマリン漬けには、意図不明な魅力がある。
 ホルマリン漬けというものは、非現実的な何か、だとぼくは思う。たとえば猫の眼球があるとする。それが何かの事情でとれてしまった。事情に事情が重なって、めでたくホルマリン漬けになる。妙な液体につけられて、ガラス瓶に収納される。その瞬間に猫の眼球は、現実から切り離されて、眼球であっても眼球ではない、「かつて猫の眼だったなにか」にされてしまう。
 ふと気になって、ぼくは左小指の縫合跡を見つめた。
 ぼくはもう一度、ぼくの小指がまたとれて、今度はホルマリン漬けになって理科室に飾られている、という想像をして見た。想像の中で、ぼくは、棚に収められている「かつてぼくの指だったもの」を眺めている。勿論左小指は存在しない。血の気がなくなった小指は、液体色に変色しようとしている。水を吸って膨らんでいる。ふやけた指先は、ナメクジに似ている。……いや、ホルマリン漬けだから、ふやけはしないか。
 かつて指だったもの。
 それを眺めている、左小指を失っているぼく。
 ありえないことではないと思う。しかし……なんだか危険な妄想のような気がしてきた。……中止、厳重中止。ホルマリン漬けだったら場所的に小森さんの方が合っている。

 掃除を終わらせて、ぼくは映画DVD『地獄の番犬(以下略)』を鞄からとりだした。
「どうだった?」
「うん、ある意味面白かった。ここまで馬鹿馬鹿しくやってくれると、いっそ清々しいね」
「いぬぽんは、地獄の番犬っていうよりも、ただのちょっとおバカな犬だよね」
 ちょっとどころじゃないだろう。いくら映画と言っても、これは作りすぎなのではないか。これがただのおバカな犬で済んでしまったら、世界人類の犬に大変失礼だと思う。
『地獄の(以下略)』は、その名の通り、悪事が大好きで、近所の子供たちから地獄の番犬と言われている美貌のビーグル犬・いぬぽんが、悪事を行うべく学校に入り込み、迷い込んだ理科室で人体模型と戦うという話だ。実際は、人体模型にびびったいぬぽんが逃げようにも逃げられず、理科室内を暴れまくり、作業で残っていた教員によって捕まる、というオチだった。
こんな話を百分映画にするあたり、金をフルスイングでドブ川に投げているようなもんだ、とぼくは思う。実際の映画はまぁ概要の通りのものだし。見る人によっては「バカ犬のバカ映画」で終わってしまう。――だけど、
見始めると、これもなかなかありなんじゃないか、とも思えてくる。一部の、チャネリングがあった人間には絶賛される類の作品だ。ぼくはそのチャネリングが完全に合ったわけではないけど、まぁ面白いと思えた。恐らく、間違った面白がり方をしているのだろうけど。
「理科室に忍び込むあたりからが、あの映画のハイライトシーンだよね」
「そこ以外に見どころ、あったっけ?」なかった気がする。すると小森さんは、ここぞとばかりに語り始めた。ぼくはネタとしては好きだが、どうも一歩踏み出せない。小森さんの“好き”は本気だ。
「あるよー。いぬぽんが女子高生に戯れてにやりとしてるとことか、畑に糞を落としているとことか、ベビーカーの赤ちゃんに吠えかかっているとことか。」
 ぼくと小森さんは、掃除が終わってからだらだら二十分ぐらい話し続けた。お互い暇人だ。

 映画について一通り話したところで、ぼくは理科準備室を出た。後ろには何故か小森さんがトコトコと歩いている。小森さんの歩き方は、犬に似ている。唐突に、朝見かけたビーグル犬を思い出した。あの後、ちゃんと家に戻ったのだろうか。
 昇降口も出て校門も出たところで、ぼくは変だな、と思った。そのまま後ろに小森さんがついてきている。ぼくの足はまっすぐと自宅に向けて歩いている。確か小森さんの家は、反対方面のはずだ。
「今日はこっちなの?」
 ぼくの問いに、小森さんは笑みを顔いっぱいに広げた。
「こっちに、好きなクレープ屋があるの。甘くって美味しいの」
 さいですか。発言からするに、小森さんは映画と同じぐらい、甘いものが好きらしい。しかし……あったっけ? あったような、無かったような。ぼくが知らないだけかもしれない。
 会話もなしに歩いていると、前方三メートルに可愛らしいビーグル犬が歩いていた。首周りに、青い線が見える。茶色いたれ耳に、黒い毛の背中。ぼくはその犬に見覚えがあった。朝、登校中に見かけた犬だ。飼い主らしき人間は、今も周りにいない。まさかとは思うけど、朝からそのまま徘徊していたんじゃなかろうか。
 犬は、しっぽを振りながら、真っ直ぐにぼくのところにやってきた。犬が飛びかかってくるので、ぼくは自然と立ち止まる。
 ぼくは犬と目線を合わせるために、その場にしゃがみこんだ。犬は、自分と同じ目線で見られるのをよしとし、見下ろされるようにして見られるのを嫌うという。通りすがりの犬とはいえ、機嫌を損ねてほえられたりされるのは嫌なので、とりあえず頭でも撫でておく。犬はうれしそうにぼくに懐いてきた。犬は当たり前だけど、犬臭い。ぼくはその犬臭さもひっくるめて、犬が好きだ。
「いぬぽん?」
 小森さんはぼくの真後ろに気配なく立っていた。後ろにいることは重々承知していたことだけど、何もなしに後ろに立たないでほしいものだ。びっくりするから。
 今の、いぬぽん? というのは、小森さんの発言だ。……いぬぽんに、似ているか? 確かに可愛いけど、ビーグル犬がなんでもかんでもいぬぽん見えてきている小森さんは、映画『地(以下略)』に相当頭をやられている。ぼくの朝の思考はさておき。
 小森さんは、ぼくと同じようにしゃがみ込み、犬の頭を撫でようと、手を出した。
 すると犬は小森さんの左手――親指と小指を除く三本指を、がぶりと強く噛みついた。
 がぶり、と。
 犬はそのまま小森さんの左手から離れようとせず、逆にもっと強く、顎を動かしている。鶏肉の骨を夢中でむしゃぶりついている様子に似ている。犬が人の骨や肉を食べるという話なんて、聞いたこともないが、人間が犬の肉を食べるのは、よくある話だ。現にお隣の大韓民国は、犬肉の鍋なんかが出たりする。そう思うと逆があっても、別におかしいことじゃないような気もしてくる。……って、今はそんな場合じゃない。小森さんの手が一大事だ。
「ユート君」
 手を噛まれてからずっと無言だった小森さんは、ぼくを振り返った。
「どうしよう。……すごく痛い。いぬぽんが離してくれない」
 まだいぬぽんというか。そういう元気があるんだったらまだまだ大丈夫かなぁ、と思って彼女の顔を見てみたら、なんと泣きそうな表情を作っていた。小森さんには、泣かなそうなイメージがあったから。
 小森さんはなんとかして、犬の口から手を出そうとする。そのたびに、犬は歯を使って、顎を使ってでも離そうとしない。それでも小森さんは、噛まれている三本の指のうち、二本を救出することに成功したが、薬指が一本だけ、残ってしまった。
 犬は噛み続ける。
 こりこりこりっ、という音がする。
 犬の口端から、一線、赤い液体がとろとろと流れてきた。小森さんの血であることは明白だ。この犬、どんだけ強い力だしてんだ!
 さすがのぼくも焦り始めた。どうしよっか。
「ユート君どうしよう。このままいぬぽんが薬指離してくれなかったら、私の指一本なくなっちゃうのかな。そうするとどうなるのかな。お願いアントワネット助けて」
 とうとう、小森さんの目端から涙が流れてきた。
 指が一本無くなる。
 それは如何とも避けなければならない事態だ。なんせ、ぼくの経験上、一本無くなっただけでも、手は、半分ぐらい機能を下げてしまうのだ。人間にとって、馬鹿にできない損失だ。
 今この場に、彼女を守る騎士こと、人体模型のアントワネット銀太の姿はどこにもいない。いるのは、傍観者である無力なぼくと、可愛いけれど実は凶悪な犬だけだ。
 ぼくは、この場に銀太がいればなぁ、と密かに思ってしまった。この犬が本当にいぬぽんそっくりの犬だったら、人体模型を見てビビって逃げるかもしれない。今ぼくは、銀太の事をナメていたことを、少しだけ後悔している。銀太は――アントワネットは、彼女の立派な騎士だったのだ。
 焦るなぁ。
 人体模型、いぬぽん、小森さん。
 彼女の鞄の、ミニサイズ版人体模型がカタカタと揺れる。ミニサイズのルイーズは、果たして彼女の騎士になりえるだろうか。
 (ミニサイズだけど)人体模型、いぬぽん、小森さん。
 焦りながらも、ぼくはふと、あることを思ってしまった。しかし、今この場で言うには最悪すぎる。だけど、もしかしたら最高なことなのかもしれない。
 ――もしこのまま、小森さんの薬指がとれてしまったら、いぬぽんの胃の中に入るか、いや、ぼくは――
「小森さん」
ぼくが言おうとしたときだ。

「ポン太!」
 声は、ぼくらの後ろから聞こえてきた。

 犬は、あっさりと小森さんの薬指を離して、声の主の所にトコトコと歩いて行った。
 聞き覚えのある声だった。ぼくは確認すべく、ゆっくりと後ろを向いた。
 見間違うことなく、ぼくの学校の保健医だった。

 どうして保健医が都合よく現れたかは、ぼくにはわからない。横に保健医の車である、青いファンカーゴが置いてある。帰る時間には早すぎやしないか? と思う。
 ぼくは保健医に一回、世話になったことがある。ぼくの小指が刺身未満になった時に、早急に病院まで連れて行ってくれたのだ。あれがなかったら本当に刺身になっていたかもしれない。そういった意味では保健医は恩人なのだが、その分怖い思いをしたので、素直にそう思えない。今回のいぬぽんと言い、前回のクレイジードライブといい、保健医の周りには危険がいっぱいだ。保健の先生なのに。
 いぬぽん、と小森さんがずっと呼んでいた犬は、ポン太という名前の、保健医の飼い犬だった。
 指の異常な状態を見て、小森さんの涙は一層激しくなった。
 小森さんの左薬指の傷は、皮膚がめくれて、強く噛まれた所は無残な歯形がついている。出血は思ったよりも少なかったように見えたけど、あとからあとから流れてきている。スッパリ切断しちゃったぼくよりも、よっぽど重症に見える。全治二週間。他の指には異常なし。薬指だけ、包帯でぐるぐるに巻かれている。
 現在、ぼくらは学校の保健室にいる。
 ぼくは薬指の悲惨な様子を見てしくしくと泣いている小森さんの代わりに、保健医に事情を話した。
「ごめんなさいね小森さん」事となりを理解した保健医は素直に頭を下げた。
「ポン太は確かに可愛いんだけど」ここで自分の犬を褒めることを忘れない。「あの子、ちょっとおバカで、女の子に噛みつく癖と脱走する癖があるのよね。よく吠えるし。困ったもんだわ。これだから、近所の人に嫌われるのよ」
 保健医はポン太の行動に、普段から相当悩まされているらしい。現在彼は、保健医の車に収容されている。……狂犬病の注射は、ちゃんと打ったのだろうか。
それにしても、
「どんな地獄の番犬いぬぽんなんだろう……」
 映画の犬とそっくりだ。美しくて可愛い犬は、バカになるという方程式でもあるのだろうか。……いやな方程式だ。
ぼくのぼそっとしたつぶやきに、保健医はきょとんとした顔をした。ぼくはすぐさま、「何でもありません」と保健医に返した。

 保健室を出て、再び帰るべく、歩きだした。校舎に付けられている時計を見ると、なんと五時を回っていた。小森さんが、とぼとぼと、赤い眼をして、元気のない様子でぼくの横についてきていた。
 保建医の車の横を通ると、ガラス窓越しに、犬――ポン太に吠えられた。
 小森さんはさっきの嫌な出来事を思い出してか、一歩二歩とあとずさっている。鞄の悪趣味なキーホルダーがジャラジャラとなるたびに、小森さんの怯えを強調している。無理もない。
 ミニサイズの人体模型、ルイーズ。
地獄の番犬いぬぽんと、人体模型。
いぬぽんにそっくりなポン太。
……もしかしたら。
 ぼくは、「小森さん、ちょっとこれ借りるよ」と言って、ルイーズを鞄から外す。ルイーズのサイズは、ミニと言っても、携帯電話よりも大きい。全長は文庫本ぐらい。キーホルダーにしては、かなりの大きさだ。間近で見れば、細部までよく見られる筈だ。
 人体模型のルイーズを彼に見せる。チェーンの部分を持って、右、左にと振り子のようにぶらぶら動かす。
 ポン太はルイーズを見て、わかりやすく、びくっ! と体を震わせた。吠えるのをやめて、こちらに背を向けて――伏せの態勢を取った。ビビって逃げたのだ。
 ぼくは、ルイーズを小森さんの鞄につけ直して、歩き出した。二三歩遅れて彼女もやってくる。後ろにいるから、彼女がどんな顔をしているか知らないが、聞こえてくる足音は、さっきりよりも少し軽くなっていた。
 これで、少しは小森さんの薬指の無念は晴らせただろう、と思う。悪犬の面白い所も見れたし、この騒動はこれにて決着、とさせていただこう。


 校門前まで来たところで、
「ユート君」
 歩いている間、ずっと黙していた小森さんが唐突に口を開いた。
 小森さんは言いにくそうに、
「何か、一人でクレープ屋に行く気分じゃないの。あのクソ犬に邪魔されたけど、だけど、クレープは食べたいの。一緒に行かない?」
 ……まぁ、いいか。
 人の血を見たことが原因だろうか。ぼくは、甘いものが食べたい気分になっていた。


 再び、理科準備室の掃除の週になった。
 やはりぼくが行くと、小森さんが先に来ていて、いつもの如くアントワネットの頭を撫でていた。あれから一層、人体模型が好きになったらしい。犬嫌いになったかは知らないが。
 掃除をしながら、小森さんが、
「ユート君、私がポン太に手を噛まれたとき、何を言おうとしたの?」
 と聞いてきた。
 ぼくは何も言わなかった。そのときぼくが言おうとしたことは、もう実現しそうにないからだ。
 小森さんの左薬指は、ほぼ完治したみたいだ。少し歪な形になってしまったけど、正常通り動くらしい。やっぱり指は五本あってこそ、ありがたみを感じるというものだ。
 だけど。
ぼくは、小森さんの左薬指と、ホルマリン漬けを交互に見つめる。
噛まれていた、小森さんの薬指。
理科準備室の常備品。
 ぼくは、もし、あのまま小森さんの指が取れてしまったら、本当に手から無くなってしまったら、何としてでもポン太の口から取り戻して――

 この理科準備室の、ホルマリン漬けの一個にするべきだ、と思った。

そうすれば、小森さんの一部だった指は、彼女の騎士こと人体模型のアントワネットと、末長く幸せにこの狭い教室で一緒にいられるだろう、と思ったからだ。

 


 

 小指の主人公、リターン。今度は薬指。
 この主人公が、どうやら友人間で非常に人気でした。なので「こいつを使ってまた変な話を作ってみるか」という気分になったわけです。書き始めると、なかなかこいつはいいやつで、打つ手が進むのです。何かのチャネリングでも合うのでしょうか。
 しかしこの話に関してはいろいろ反省中の部分も多く、作者の弱点が相当露呈されてしまっています。生暖かい眼で見てください
 ちなみにこの作品も、学校の部誌のリサイクル品です。

 あとこの主人公はもっと変態でもいいと思いました。

 

 2009.1.5.黒崎伊音拝 400字詰原稿用紙約25枚

 

 

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